日本の陶芸史

江戸時代 加藤民吉

有田から瀬戸-加藤民吉

江戸時代に入り尾張藩主徳川義直は、瀬戸の陶業の発展を奨励します。
戦国時代の戦乱を避けて美濃に移住していた陶工達を瀬戸に呼びもどし、地所を与え、租税を免じて育成に乗り出し、これによって瀬戸窯業は再び盛んになりました。
国主の保護の下に生産を続けましたが生産過剰現象が常に起り、尾張藩では名人芸のみの保存の見地から「永代ろくろ一挺の制」などを定めたほどです。

尾張藩はやきもの生産と分業組織を肥前に学ぶために加藤民吉を有田へ派遣します。
民吉は肥前で還元焔焼成の技術など様々な勉強をして文化四年、瀬戸村へ帰ってきます。そして、新たに窯を築いて磁器の製作をはじめます。
民吉は瀬戸再興の礎をうちたて、今も瀬戸で磁祖として祀られ、九月に窯神まつり即ちセトモノまつりが盛大に開かれます。

有田で民吉は苦労を重ねました。製磁に限らず、秘法を人に教えるなど、考えられないことであり、まして異郷人がこれを習得することは至難の業でした。有田で妻子を持っていた民吉でしたが、単身瀬戸に帰り、肥前とは違う原料を使って同じような磁器を作るために苦心惨但の努力の末、磁器作りに成功をしました。
尾張藩では民吉の功績をたたえ、大切に処遇しました。

一方肥前に残した妻子は寂しさに堪えられず、瀬戸に彼を尋ねて遥々やって来るのですが、尾張藩は妻子には会わせませんでした。悲しみに沈んで帰って行く妻子の身の上を思って土地の人々は今もなお、同情をよせています。またの一説では帰る途中で投身して果てたともいわれています。