日本の陶芸史

江戸時代 柿右衛門

有田-柿右衛門

酒井田柿右衛門は、色絵磁器の始祖とされています。

初代柿右衛門は慶長元年に生まれ、寛文六年、七十一才で没。李参平がはじめて磁器をつくってから三十年たらずの寛永の末もしくは正保のはじめの頃、苦心の末に赤絵に成功したといわれています。

中国の宋の時代から始まって、明時代に発達した「赤絵」を日本で最初にとり入れた人が柿右衛門のようであり、正保年間には中国にこの製品を輸出し、さらにオランダ貿易によってヨーロッパにもかなり輸出されました。ヨーロッパではこの「柿右衛門」を中国製以上と評価して、オランダの製陶地では、柿右衛門のイミテーションを作るほどだったと言われています。

柿右衛門が色絵磁器をはじめるとまもなく、その秘法は流出して有田一円の窯々でもこれをつくるようになります。有田焼は主として北三里の伊万里の港から各地に送られ、また肥前一帯の窯元たちは、伊万里に住む商人たちの経済的支配下にあったので、これを伊万里焼と呼ぶようになりました。



伊万里焼の名声が高まり、年々その需要が高まると、肥前一帯の製陶業者が増加します。
肥前の色絵磁器は、大きくわけて柿右衛門、古伊万里、色鍋島の三つの型にわけることができます。
鍋島藩は、正保四年泉山原料の使用制限令を下し、また翌慶安元年には有田皿山代官を置き、ついでは皿山番所を設けています。
業者の監督とともに、他国人の出入を見張り、磁器の製法、色絵の技術の他藩にもれるのを警戒したためだろうといわれています。


鎌倉室町時代には日本六古窯以外いくらも窯がなかったようですが、桃山時代瀬戸、美濃にたくさんの窯がおこり、また文禄慶長の役のあと、九州にも多くの窯がおこりました。
それでも桃山時代わが国にあった窯の数は二百程度といわれています。それが、江戸時代に入ると、日本のやきものは急速に盛んになり、わが国各地に窯が開かれました。