日本の陶芸史

明治、大正時代 洋風技術

洋風の製陶技術

文化文政の頃から有田、瀬戸、美濃のような大きな製陶地に、地区による製品の種別が任じ、生産効率の向が図られました。
そして、明治に入り窯、成形、釉薬、絵具、絵付などに西洋風の新しい技術材料が移入されました。

慶応三年パリで万国博覧会が開催されて江戸の商人清水卯三郎が渡欧しました、彼は石膏をつかって型をつくる技術や、硬化コバルトその他の陶磁顔料を持ち帰りました。

佐賀藩は明治二年、清水、服部の二人を招いて酸化コバルトの使用法を藩の工人たちに伝習させ、大量にこれを輸入したので有田一円ではコバルトを多様するようになります。ついで瀬戸、美濃地方にもコバルトの染付が伝播します。
明治元年ドイツの化学者ワグネル氏が来日して、石炭による焼成、コバルトの使用、石炭を使う場合の釉薬の調合などを教えました。



海外市場と結びつく瀬戸 明治椎新後のこと

明治維新後の瀬戸は藩による保護がなくなり、業者の中には生活に困る者が続出しました。

一方で明治維新の変革が瀬戸陶磁器産業に与えた最も大きな影響は海外市場との直接的な結びつきです。瀬戸が海外との結びつきが本格化するのは、明治六年の万国博覧会、明治九年の米国フィラデルフィア博覧会、さらには明治十一年のフランス・パリ博覧会等の一連の海外への製品紹介で、これを通じ、陶芸瀬戸はその名を海外に広く知られるようになりました。

明治後半に入ると、近代的な工場が起こり生産が増大しました。
明治三十七年には名古屋に日本陶器会社がおこり、同三十九年には京都に松風陶器会社が設立されます。瀬戸、多治見、有田、九谷などにつぎつぎと近代的な工場が設立されました。
明治三十年、鉄道の開設とともに、時代に適した磁器が安く大量に運搬され、地方の陶器はこれに対抗できずに次第に廃窯になりました。そして瀬戸、美濃、有田といった製陶の中心地に生産が集中しました。